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地域ブランド「玉造温泉」を守れ 危機からの再生 前編
今や女性客で賑わう玉造温泉。しかし、10年前は通りを歩く人影もなく衰退の一途をたどっていた。地域ブランド化を行い、復活を遂げた玉造温泉に迫ります。 後編はこちら<平成27年度制作>
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温泉街の衰退
1992年の米子高速道路の開通からの観光客を見込み、玉造温泉の各旅館では、大型化や近代化を進め、館内での飲食・娯楽・物販機能等の充実に力を入れました。団体客重視の施設整備によって宿泊客を外出させない囲い込みをしていました。結果的に地場産業との結びつきに欠け、街の衰退を加速化、温泉街の魅力を奪うことになりました。
衰退著しい2006年頃。国内旅行市場に陰りが見え、経済状況も相まって旅行者の減少が顕著だった時期。日本人の旅の意識は、「みんな一緒」という時代から「ひとりひとり」という個の時代に変わり始めていました。団体旅行ではなく個人旅行が主流となっていたのです。山陰屈指の温泉街は、時代のニーズに乗り遅れ、すっかり活気のない姿に変り果てました。
2006年当時。温泉の広報、観光誘致から公の利益を目指す観光協会は、行政主導で、民間的発想と自主財源に乏しく有効な施策にたどり着けない状態。一方、経営の当事者であるはずの旅館組合事務局は嘱託の女性職員2名のみで、事務処理が主で事業の発案は出来ない状態。温泉街全体のリーダー不在の為、将来への指針は無いに等しい状態でした。各団体の機能と連携体制が無かった事と、明確な指針の無い施策から、温泉街全体としての企画発案や広報はあまり機能していませんでした。
温泉街の危機・外部資本の参入
温泉街に15軒あったうち4軒の旅館が倒産。倒産した老舗旅館は、県外の大手資本に売却されました。それまで数百年に渡り地元経営で成り立ってきた玉造温泉の歴史で外部資本の進出は、初の出来事でした。
2007年当時、温泉街で懸念されていたことは、新規参入の大手資本が低価格での金額設定で団体客の囲い込みを行なうのではないか、旅館街が代々受け継いできた経営体制が崩れるのではないか、街の景観や、風情が壊れてしまうのではないか、衰退していったあちこちの温泉街のようになってしまうのではないか、ということでした。厳しい現実に、旅館関係者、地域住民、そして行政も危機感を抱きます。
「街を何とかしなくてはならない。」周藤実さんを司令塔に、「街のにぎわい再生」に向け動き始めたのです。
賑わいの再生に向けてまず「守る」
玉造温泉の再生に向けて、周藤さんらが目指したのは「個々の経営ではなく玉造温泉という組織での経営・運営」。そのために、“玉造温泉”というブランドを守る必要がありました。 着目したのは「地域団体商標登録制度」。この制度は、地名を含む商品やサービスの名称を適切に保護することにより、事業者の信用の維持を図り、産業競争力の強化と地域経済の活性化を支援することを目的としています。
「玉造温泉」が地域団体商標に登録された結果、玉造で温泉旅館業を営むのであれば玉造温泉旅館協同組合に入るというルールが作られました。あわせて温泉街に関わる組織は、再編成されました。
観光協会は、周藤さんを中心に行政主導から民間主導の活動形態に変え、玉造温泉全体のプロデュース、街づくりの舵取りを始めます。旅館組合もこれまでの組織を変え、プロモーション体制を整えました。地域の皆さんの気持ちを一つにするため、自治会、商工会、福祉協会、旅館組合、観光協会からなる「玉造温泉街活性化プロジェクト会議」も組織されました。
そして、従来の観光視点からではなく、街づくり視点から「にぎわい再生」の活動が始まりました。そこで重要視したのが、街づくりのためのブレないコンセプトづくりでした。
→守りから攻めへ 地域ブランド「玉造温泉」で攻める 危機からの再生 へ続く