エッセイ│てくのえっせい 419

“社会に目が開く鉄道の旅”

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広島工業大学名誉教授
中山勝矢

将棋の谷川浩司さんが、最近「藤井聡太論*」という本を出しました。二人とも鉄道好きで、藤井さんは「乗り鉄」、ご自身は時刻表の愛読者だと書かれていました。

時刻表からあの細かい数字を拾い、暗算で四則演算をして 各地を巡る旅を楽しんできたため、加減乗除に熟達し、将棋 でも大いに役立っているそうです。

確かに鉄道は、社会を知る窓です。幼い頃、母がJR中央 線中野駅から実家のあるJR山手線巣鴨駅まで行くときは、 必ずお供をして10ほどの駅名を懸命に覚えたものです。

赴任先を巡る

国立研究所の筑波移転事業を終えて、職員とともにほぼ7年間、筑波の新都市に住みました。どこの新都市も特に魅力 に富むわけではなく、自分の車で巡れば足ります。

50代に入り、そろそろ定年が視野に入る頃、中国5県の産業技術と環境問題を主な仕事とする経済産業省傘下の中国工業技術試験所(当時。現「国立研究開発法人産業技術総合研究所 中国センター」)に派遣されることになりました。

中国地域にはそれまでご縁がありません。研究所も官舎も広島県呉市にあるし、車で気ままに走ればたちまち見学完了です。それが中国地方全域となると、話しが違います。(写真1)

(写真1)中国地方5県のJR路線概略図(執筆者作製)

地域全域のJR線踏破といったプランが湧いてきました。鉄道の自由席なら迂回への変更もでき、途中下車が可能な上、時間に余裕が作れるし、酒を楽しみ、休息も取れます。

たとえば東京出張の帰りは京都から山陰本線に乗り換え、途中下車で数時間雰囲気を楽しみ、土地の銘品で腹を満たしてから次に来る列車に乗る方法などを空想したものです。

山口県北部の山陰本線が日清・日露の戦役に関係があるという説明の看板を、興味深く読んだものです。目立たない支線にも足を踏みこみ、中国地方の全線踏破は終わりました。

有名な駅でも、街の中心から離れているところが少なからずありましたが、ロードマップだけでは分かりません。「過疎」という言葉も、訪れてみなければ実感が湧いてきません。

当時正月は、親の家の元旦の席に戻るのでした。夫婦二人連れで、ある年は平戸を経て長崎空港から、次は日豊本線などで九州指宿まで行き、鹿児島空港から帰ったことがあります。

大陸横断に挑む

ところでもっと若い頃、1963年春、カナダでの在外研究を終えて帰国する際、ジェット機ではなく、好奇心から3泊4日の大陸横断鉄道に挑んだことがありました。    

3泊4日の旅で、しかも3歳半の幼児を含む3人連れですから、詳しく調べました。昼間の座席と夜の寝室は別で、展望車も付いていますが、3泊に自信が持てません。(写真2)

(写真2) カナダ横断鉄道の途中駅での散歩風景「車両の上に展望室の設備が見える。」(執筆者撮影)

それで終点のバンクーバーの一つ手前、ロッキー山脈の麓の大きな街カルガリーで降りてホテルで一泊、翌日は車中に泊ることなく終点のバンクーバーに直行したのです。

始発の駅はトロントです。オタワからトロントに行き、乗り換えました。大仕事に取り掛かる感じで、気分が高揚してきます。乗客は多くなく、比較的座席は空いていました。

まだ日本も豊かでない頃でしたから、食堂車できちんとした食事が出てくるとドキドキしました。夕食が終わって寝室に行き、朝起きるとまた食堂車に行くわけです。

2日目の朝は、窓の外の風景が変わっていました。山も森も家もなくなり、見えるのは一面に黄色い畑と、それに並行した一本の自動車道路だけになりました。 (写真3)

(写真3) トロントを出て翌朝の光景「視野全面に広がる麦畑の光景が明け方まで続く。地平線の近くに鉄道に並行した道路があり、一台の自動車が走っているだけだった。」(執筆者撮影)

一面黄色い畑の正体は麦でした。時は3月中旬。近づけばたわわに実った麦の穂が見えたことでしょう。2千kmもの光景が、何と3日目の昼過ぎまで続いたのは驚きでした。(写真4)

(写真4) 3日目の夕方の光景「30時間ほど続いたこの麦畑の光景は、ロッキー山脈の近くでやっと終わった。」(執筆者撮影)

空を飛ぶ旅行なら、こんな強い印象は受けません。鉄道であればこそ、大陸を実感できたのです。日本がこんな大きな大陸の国々と、5年近くも戦ったとは考えてもいませんでした。

 (注) *谷川浩司著「藤井聡太論 将棋の未来」
            (講談社+α新書、2021年)

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経済産業省 中国経済産業局 電子広報誌

ちゅうごく地域ナビ 2021年9月1日掲載

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