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てくのえっせい451

幼いころの記憶は人生の苗床

2024年5月31日
広島工業大学名誉教授
中山勝矢

誰しも、自分が生まれ落ちるときのこと、あるいは母親に抱かれて安心して眠っていたときの有様を思い出すことは、難しいのではないでしょうか。(写真1)

年子のように弟や妹が生まれて家族が5人になった春に、荻窪から中野の戸建て庭付きの借家に引越しました。4歳の中頃だったはずですが転居の作業は全く記憶にありません。

東側が陸軍の電信隊で、その正門に続く通路に沿った家でした。それで伝書鳩が朝から夕方まで群れをなして飛んでいました。その光景は子どもには興味深く、飽きないものでした。

(写真1)まだ誕生日前と思われる幼児の寝姿「この段階では記憶が脳の機能に留まることはないと考えられている、執筆者作製」

転居祝いに「オトメツバキ」

母は「この庭には何もなかったけれども、お父さんの職場女性の方が転居のお祝いにオトメツバキを持ってこられ植えられたのよ」と、何度も話していました。(写真2)

私はご当人に会っていないし、お名前も知りません。毎年春になり、ピンク色の花が咲くと両親が同じ話をするので今でもオトメツバキの花を見る度にこの話が心に浮ぶのです。

小さいながらも庭がありましたが、家主所有の柿が枝を張り、庭の半分以上を覆うほどなのです。秋には実がたくさんなっても、親は「これは渋柿よ」と言い、触らせてくれません。

5歳になったばかりのころ、海外勤務から戻った伯母が日光に静養に行くというのでお供をしたことがありました。出来たての地下鉄の銀座線に乗って見たかったのです。

終点の浅草駅に着きました。ここで東武鉄道に乗り換えて日光に行くと言うのですが、電車の先にまだトンネルが続き、線路が見えます。好奇心から動かずにしばらく見ていました。

(写真2)転居の記念に贈られたオトメツバキ「春に花が開くと一連の話が思い出される、執筆者撮影」

二・二六事件の朝

朝起きて驚きました。何か異常なのです。ラジオは鳴らず、近くを走る電車の音も聞こえてきません。電車の動かない、子どもには気持ちの悪い朝という記憶が残りました。

外に出てみると、電信隊の正門に続く通路の脇には、人影がないのにたくさんの小銃が3丁ずつピラミッド状に組んで立ててあるのです。薄気味悪く感じた覚えがあります。

この銃の立て方は、野外の休憩時に行う正規のもので、叉銃(さじゅう)と呼ぶと教えられました。この日は昭和10年(1936年)2月26日、2.26事件の朝の記憶です。4歳半でした。

幼稚園も保育園も当時はまだ珍しく、普及していません。豊かでない家庭には縁がないという趣きで、小学校までは、自宅で親の指導を受けていたわけです。

当時4歳半でしたから、麻布3連隊が起こしたクーデターと言われても分かるはずがありません。でも体験の記憶がありますから、他の方々以上に日本の現代史には関心が湧きます。

最後の1枚の写真は、自宅の近くのバーで3代の家族がカラオケを楽しんでいるスナップ写真です。2歳ほどの孫は、親からマイク取り上げて大人の真似をしています。(写真3)

幼い子ども時代の記憶は,異常を感じて好奇心を沸き立たせるだけでも重要です。そのうちに記憶は磨かれ、研ぎ澄まされて、知恵を生み出してくれる苗床になってくれます。

(写真3)バーで一家そろってカラオケを楽しんでいた家族「小さい孫娘がマイクを手にして前に出てきたがまだ歌えなかった、執筆者撮影」


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