1. ホーム
  2. ちゅうごく地域ナビ
  3. てくのえっせい ―過去の記事―
  4. 頭を悩ます食料の備蓄
てくのえっせい438

頭を悩ます食料の備蓄

2023年4月3日
広島工業大学名誉教授
中山勝矢

 多数の兵員を動かす戦争では常に多量の食料が必要です。部隊の移動とともにその蓄えも運ばねばなりませんが、生鮮食品は痛みやすく、その保管は頭の痛い課題でした。
 都市が成長し、大型船による遠洋航海が始まると、水と新鮮な食料の確保は大きな問題でした。多くは干物か塩漬けでしたが、腐敗を封じるため火を通したものもありました。
 国境近辺での競り合いだけでなく、大規模な軍隊による遠征も繰り返したナポレオンにとり、食料の確保のみならず保存の技術は放置できない最重要課題だったのです。

非常時の保管食品

 昨今は、地震、津波、噴火などといった大災害の発生が伝えられ、避難場所から緊急時の食料のことまで、各人は常に頭に置くように要請されています。
 先日も近くの中学校で関連資材の見学会が開かれました。そして最後には、アルミ箔に包まれ災害救助用と銘打たれたクラッカーが試食用に配られたのです。(写真1、2、3)
 確かにこれなら保存性もよいし、口当たりもいいので、たちまち食べてしまいました。問題は新鮮な野菜や果物、そして魚や肉なのですが、缶詰に期待、で終わったのです。
 実はナポレオンの時代に、フランス政府は新鮮な食料を長期間保存する方法に困り、1万2000フランの懸賞金をかけて募集したという記録があります。
 入選したのはビール醸造業者出身の菓子職人アペールでした。ガラス瓶に食品を入れ、コルク栓で密閉した後に加熱して殺菌するというもので、1804年のことです。
 しかし、アペールは特許も取らず、懸賞金はすべて研究に当てて開発を続けたのです。その結果、彼は生活に困窮し、1841年に世を去り、共同墓地に寂しく葬られたとあります。
 その後1810年に、イギリスの卸売商人デュランドが、缶に熱い蒸気を吹き込みながら缶を封じるという新しい食品保存法を考えつきました。これが缶詰の誕生です。
 この考案は紅茶を入れる金属製の茶筒にヒントを得たものです。ヒントになった茶筒は、紅茶の流行に沿ってオランダ人が日本から欧州に伝えたものだといいますから面白い。
 缶詰の需要が急増したため錫メッキした鉄(ブリキ)の缶が主流になりましたが、意外に場所を取ります。使い残した軍用の貯蔵缶詰は鉄の山と呼ばれたといいます。(写真4)


(写真1)中学校の体育館で開かれた災害関係資材の説明会「近在の自治会の人が次々に質問をし、納得していた。執筆者撮影」

(写真2)梱包された非常食のクッキー「透明なポリエチレンの袋に入れてあり、さらにアルミ箔で包み、ブリキ缶に納められていた。執筆者作製」

(写真3)缶に納められた災害救助用クラッカー「26枚を単位にアルミ箔で包んであって100g程度だが、缶に納めるとかなり重くて持ち運びは容易でない。執筆者作製」

(写真4)保存用の鯖の缶詰「大型の箱に詰め込んであるが相当に重い。取り下ろして運ぶのは容易でない。地震で崩れるとか、火が回ったら手に負えなくなると思われる。執筆者作製」

降り注ぐサケ缶

 80年も昔の話です。1945(昭和20)年3月10日の夜、東京は焼夷弾による大空襲で1/4が焼け落ちました。翌朝早く、自転車で文京区の伯父の家まで見舞いに駆けつけました。
 見渡す限り焼け野原でした。近くに腰を下ろしていた伯父さん夫妻に、まだ中学2年生になる直前だった私は、見るに忍びず「ウチにいらっしゃい」といったことを思い出します。
 帰宅の道の傍らでは、軍の倉庫が焼夷弾で火事になっていました。そして驚いたことに、火を浴びて破裂した鮭缶の中身が、次から次へと道路に雨のように降り注いでいるではありませんか。
 明日から2所帯が合流し、人数が増えるのですが、食料の貯えがあるわけではありません。母のお供で、農家を回り食料を仕入れる買い出しもしていましたから、心配でした。
 それで破裂前の鮭缶を少しでも入手できればと考えながら急ぎ帰り、箱を探して自転車に積み、現場に戻ったのです。この鮭缶で2所帯の食事は、しばらく助かったのでした。
 陸上部隊では各自に携行させるか、馬車やトラックなどを同行させていたようです。予め場所を決め、そこに必要な量の物資を貯えておくのが原則だったようです。
 後に豊臣秀吉となる織田信長麾下の木下藤吉郎は、軍の作戦が決まると先回りし、そのルートの傍らに適宜距離を置いて、買い上げた飼い葉を積みあげたと聞いたことがあります。
 逆に日露戦争の時には、バルチック海からアフリカ、インド洋と回送されたロシアのバルチック艦隊は、日英同盟を盾に寄港先で水や食糧の補給を断られ、弱体化してしまったのです。
 終戦間際には、南太平洋に展開した米軍の航空基地の奪回に軍隊を派遣しても所要の機材や食料を届けることが出来ず、飢餓に苦しんで餓死するものが多く発生したのでした。
 災難に遭ったとき一番苦労するのは食料です。分かっていても簡単に手に入るものではなく、腐敗していたため病気になったら大変です。人は災難で賢くなると聞きます。


ページ
トップ