話し言葉をまなぶ知恵
2023年3月1日
中山勝矢
春3月は、すぐに雛祭りとなります。古くは「上⺒の節句」といったようですが、江⼾中期以降は「桃の節句」「雛祭り」と呼ばれ、主役は王朝⾵の人形になりました。
ところが先日、東京新宿の京王プラザホテルのレストランで⾒た雛飾りは壇に並べられた人形ではなく、様々な人形を紐で縦に吊るした型破りのものでした。(写真1)
知人は北陸地方や信州にあるといいます。全国を訪ねたらいろいろと変わった雛飾りに出会えそうな気になりました。一つのことでも工夫により土地柄が出るのは楽しいことです。

わが国で生まれた紙芝居
明治以前にも寺子屋で文字教育はありましたが、明治になり近代化の国策として全国⺠に対し教科書を使う教育が始まりました。文字を習う前、内容の説明は大変だったのです。
海外を知る人が幼稚園や保育園を試みました。やはり文字教育以前の子どもでは苦労が多く、目の前の子どもたちに絵本を開いて⾒せ、筋を聞かせることに終始したようです。
100年以上たった今日でも、やはり紙芝居は幼稚園や保育園で日常的に使われています。写真は「おべんとう」の題で様々なことを子どもに説明をしている紙芝居です。(写真2)
まだテレビも映画もない時代です。紙芝居はその状況を乗り越える工夫でしたが、ルーツはわが国で、江⼾時代の幻灯と明治大正期の紙人形芝居に行きつくとあります。
つまり、幻灯や紙人形芝居を⾒せながら口頭で話を進めるのに要る⾼度な話術は、落語や浄瑠璃の形でわが国では早くから普及していて、それが活用されたというわけです。
昭和初期に、街頭紙芝居とでも⾔えそうな商売が路地裏に現れました。自転車の荷台に積みこんだ小舞台に説明者は絵を差し込み、弁⾆さわやかに話を進めるのでした。(写真3)
この大道芸人的な演者は、先ず来たことを知らせて子どもを集め、割りばしに水飴を巻きつけて売っていました。値段は多分、1本が1、2銭程度ではなかったかと思います。


⾔葉を学ぶ場所
紙芝居を街頭で演じる人は、ただテキストを読んでいたのではありません。⾳の出るものは持たず、抑揚をつけた声が武器でした。でもその語りは、聞く人を興奮させたのです。
子どもたちは飴を舐めながら、自然と東京弁の調子や⾔い回しを⾝につけたのです。これは遠方から出て来て東京に住み、家庭を持った人が子どもに教えられないことでした。
様々な技術を⾝につけて社会に出たとしても、やりとりのわずかなニュアンスの違いがビジネスの障害になります。紙芝居は、スムーズに世渡りする知識を教えてくれたのです。
早く来て飴を舐めている子は小舞台の傍に⽴ち、その日は小遣いがなくて飴が買えなかった子は少し離れても一緒に話を聞いていたものです。(写真4)
いま住んでいる東京の府中市にある博物館で、当時の子どもたちがたむろした街頭紙芝居の道具一式を⾒つけたとき、懐かしさで思わず⾜を⽌めてしまいました。(写真5)
⺟の姉、つまり伯⺟の連れ合いは上州出⾝の人で、若いときから⽶を扱う店で働いていました。それで、⽶の品質を⾒抜く能力は優れていると聞いていました。
大正末期の関東大震災後に自⽴し、現在の文京区千⽯町で精⽶から配達まで取り仕切る⽶屋を営んでいました。その裏手にはお屋敷町があり、一帯がお得意さんでした。
店からお客の勝手口まで、自転車で⽶を運びます。勝手口に出てきた女中さんから、既に納めた品の評判とクレームを聞いて帰り、次の商品に活かすのが商売のコツでした。
お得意さんの家の女中さんですから、遠回しに指摘することが多く、⾔葉に堪能でないと聞き洩らしてしまうと、伯⽗は⾔っていました。
一日働いて疲れて帰っても、⼣飯のあと「寄席に行ってくる」と⾔って出かける姿をよく目にしました。遊びにきていた私は幼くて、寄席もその意義も全く分かりませんでした。
いま考えると、東京の寄席なら落語でも講談でも江⼾前です。そのリズムと⾔い回しに慣れることは客あしらいに役⽴つことでした。つまり⾔葉の勉強をしていたわけです。
声優、役者、歌手など声を使う人は、絶えず喉を鍛えているものです。文筆家なら、優れた⾔葉の⾔い回しに関心を持ち、その使い方を考えています。
自らの⽋点を意識すれば街頭紙芝居であれ、寄席であれ、学ぶ機会は手近に⾒つかるものです。街頭紙芝居の意義に気付いた瞬間、未来が広がる思いになりませんか。

